『運命じゃない人』礼賛
浅草にて
前回の最後にちょろっと書いた映画『運命じゃない人』に関しては、すでにカンヌで4部門の賞をとっていることだし、今さら何をかいわんやという感じなのだが、しかしそれでも一点だけしつこく言っておかなければならないことがあると思った。
監督内田けんじ氏いわく「映画を撮りたい学生って、脚本よりも映像ありきの人が多くて、一本も面白いと思えるものがなかった。そういう自主製作映画ノリへの対抗意識は、すごくありました」。
内田監督のこの言葉はむろん、自主製作映画への苦言の形をとりながら、日本映画そのものの弱点を指摘しているのは明らかだ。脚本の論理をしっかり形成することをせず、雰囲気で押してしまう日本映画のつまらなさには僕も長い間ヘキエキしてきた。
だからこそ、僕も微力ながら東京国際ファンタスティック映画祭で『600秒』というショートフィルム・アワードを立ち上げ、一定の時間内で映画を作ることによって自然に論理が必要になる方向を目指してみたりしているのだし、昨年からは『600秒:WORDS』という脚本のコンペティションにも道を広げてみた。
そんな中、『運命じゃない人』が実作で脚本の重要性を前面に押し出したのは、本当に画期的なことだった。それがどう緻密にユーモラスに出来ているかは、とにもかくにも観て納得していただくしかない。数人の登場人物が交差するひと晩を、時間差を使いながら反復して描くというのが基本コンセプトだが、内田監督は演出にも非常にたけていて、役者に抑えた演技を要求しつつ、寓話性とリアリティとを見事に現出させている。
論理は本来エンターテインメントである。つじつまが合うことは脳に何事かの快楽的刺激を与える。例えば黒沢明の映画が何度観ても面白いのは、そこに練り込まれた論理がゆるぎないからであって、ただ感覚だけで撮るようなことをしなかったからでもある。
それがどうしたことか、随筆好き、私小説好き、無作為を是としたがる日本人の悪しき半面が映画から論理を排除してしまった。行間のムードばかりを前面に押し出すようになり、奥底に隠れたゆるぎない論理をないがしろにするようになった。それも逆に伝統から切り離された70年代あたりからではないかと思う。つまり日本に対抗した世代が、かえって日本のよろしくない面だけを受け継いだ。
俳諧を読んでもわかるように、そこには感覚だけがあるように見えて、実は他の言葉の並びでは“奥底に隠れたゆるぎない論理”が崩壊してしまうような、ぎりぎりの超論理のようなものが働いているのである。感覚上の論理とでもいったものが、優れた俳諧には存在しており、かつてはむしろその結合をこそ競ったのであって、決してただの感覚のみの言葉遊びをしていたわけではないのだ。
『運命じゃない人』には、そうしたレベルの論理性がある。単につじつまの楽しみだけでなく、軽みや諧謔、寂しさの滑稽さといった感覚的なものが論理と交差し、まさに連句のようなズレ、イメージのすり変わり、同じ風景の意味が人物の視点によって変化していく醍醐味がある。
したがって、脚本主義を貫く『運命じゃない人』は決して構築を主とする西洋的な考え方を土台とした作品ではなく、かえって日本的な傑作なのだと僕は思う。
こういう映画が流行ってくれないと。

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