モボ&モガ異聞
自宅にて
必要が生じて、いま戦前のモダンボーイとモダンガールについて調べています。
いわゆる「モボ、モガ時代」は1920年代後半から32年くらいまでのこと。東京市界隈の主な遊び場は銀座や横浜で、スポーツをたしなみ、オートバイ、自動車などの乗り物を自分で持つことがモボたる条件だったようです。
銀座の若旦那や美男俳優の中野英治(1904〜90)らモボ代表の面々が仰ぎ見た存在は、オペラ歌手の藤原義江、画家の東郷青児、作家の中村正常、竜胆寺 雄、服飾評論家元祖の中村進治郎、浅草オペラの田谷力三に「あきれたボーイズ」といった人たち。ただ、モボを気どれども、そう言われるのはどこか不愉快、不思議な矜持を有していたそうです。
一方、モガは、ブルースの女王と謳われた淡谷のり子さん(1907〜99)や映画評論家・小森和子さん(1909〜2005)が代表的存在で、「毛断(モウダン)」(=断髪)と洋装がモガたる第一条件でした。ダンスホール通いにシャンソンや洋画鑑賞好きとなれば、「不良、ラシャメン(洋妾)、札つき」とそしられることもしばしば。気骨稜々が大正期に多感な十代を過ごした新しがりやさんたちに共通する特徴と言えるかもしれません。
モダンボーイの一人、石津謙介さん(1911〜2005)は、モボと現代のプレーボーイとを比較し、お洒落度の高さや進歩的思想の面でのモボ上位を盛んに言っていました。
スポーツに関しては東京マラソンの盛況ぶりとは対極にある、まだまだ一部の人たちしか享受することのできない特権と負い目の時代です。小森のおばちゃまの自叙伝『流れるままに、愛』(集英社・84年)、第4章「愛と喝采の日々」には、当時ならではの切ない秘話が出てきます。な、なんと、恋の相手のひとりに元サッカー日本代表選手、右近徳太郎さん(1913〜44)の名前が!!
<そんな私の前に、まさに爽やかな突風みたいに現れたのが右近くんだった。彼は慶応大学のサッカー部の選手で、休みに大阪の実家に帰り、たまたま宝塚のダンスホール……相変わらずダンスは好きだった……にきたところを誰かに紹介されたのだったと想う。/(略)つきあいはじめてだいぶしてからわかったことだけど、彼は当時の私よりだいぶ年下の22歳。家は大阪の名門で長者番付にも名前がよくのるほどの金持とか>
<それから数ヶ月して彼はサッカー選手のキャプテンとしてベルリン・オリンピックに赴いた。そこからも彼は毎日の日記として私に手紙を書き送ってくれた。それはスポーツマンのダイアリーといった簡潔なものだったけど、私には愛の手紙に感じられた>
1936(昭和11)年、夏のベルリン五輪で日本代表は強豪スウェーデンに3−2(前半0−2)の逆転勝ちを収めます。そのときの同点ゴールをおばちゃまの当時の“婚約者”が決めているのです。
ところが結婚は一家上げての反対にあいます。別れがあり、更におばちゃまを暗澹たる思いにさせる事態が……。
<右近くんは、それからまもなく死んだ、という報が、私にまで伝達された。中国大陸へ出征する途中の、朝鮮海峡で、乗船していた輸送船が沈没したのだという>
もてにもてたやさしい色男のこの天才ミッドフィールダーもまたモボ的なひとりだったのでしょう。いただけないのは、おばちゃまの記憶違いの多さです。代表のキャプテンは他の選手だったし、慶応はサッカー部ではなくソッカー部。就職先の社名も亡くなった場所も違います。実際は昭和19年にブーゲンビル島で戦病死され、陸軍での階級は兵長でしたから、およそベルリン五輪の英雄らしからぬ扱いです。恐らく大正っ子ならではの「反軍思想」の持ち主だったのではないかと推測する神戸一中の後輩たちがいます。サッカー界に最初の大きな栄光をもたらしたベルリン五輪の年は2・26事件の年でもありました。
ところで、今やそのモボ&モガ時代を肌で知る文化人は、この3月10日土曜日に100歳の誕生日を迎えられる石井桃子さんぐらいのもの。当日は、ぼくのいちばん好きな彼女の小説『幻の朱い実』上下巻(岩波書店・94年)再読の日と今から決めています。
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